元長期引きこもり が素人哲学を展開!
今回は、私が小さい頃から考えてきた「宇宙、未来、現在、過去、死、無」など哲学的な事について様々書いてみました。
哲学について専門的に勉強した事はありませんが、これらは根源的な謎なので、誰もが考えた事があり、何らかの考え方を持ってるものだと思います。
私の考えてる事を書いてみました!
文字だけでは寂しいので旅行中に撮った風景写真を張ってみました。
結論=YOLO
今から数年前に欧米のSNSで流行っていた”YOLO”という言葉をご存知でしょうか?
YOLOとは”You Only Live Once.”という意味の略語で、「人生は一度きり」という意味です。
このYOLOという言葉は今は時代遅れの言葉となってますが、
死生観について結論から言いますと、この”YOLO”という考え方が正しいものだと考えています。
何故なら、自分が死ぬと一体どうなるかは生きている限り謎だと考えるからです。そして、死ぬという事は不可逆的な事です。本当に死んだらもう元に戻れません。
無になるのか?ならないのか?死後に一体どうなるかは分からないし、死んだら元には戻れない。
という事は「人生は一度きり」と捉えて生きていく事が正解のように思えます。
しかし、来世だとか生まれ変わり(輪廻転生)を本当に信じている人もいます。
国際社会調査プログラム(ISSP)という調査機関の調査によると、日本人の約4割が死後に生まれ変わると考えているという結果が出たようです。
日本人は無宗教で神様を信じないと一般的に言われていますが、神社や仏閣は日本のそこら中にあるし、お墓参りとか初詣とか葬儀などを多くの人が真面目に行ってます。
これは心の奥底で霊や魂などといった目に見えないなんらかの力を信じているからだと思います。TVでもそういったものを取り上げた番組は一杯あるし、ネット上でも「生まれ変わったら~」と生まれ変わりの話をしている人が多くいます。日本に輪廻転生を信じる人が4割もいても不思議じゃない気がします。
しかし、輪廻転生を信じるに値するような根拠は何処にあるのでしょうか?私には良くわかりません。
輪廻転生思想は死という現象から発生する理不尽な思いを解消したいという願望に基づいた根拠のない妄想なのではないのでしょうか?
願望≠真実
インドでは古代インドのバラモン教由来の輪廻転生思想とカースト制度があります。今でもカースト制度の影響は色濃く残っています。
カースト制度の中では人々がバラモン(司祭)、クシャトリア(貴族)、バイシャ(商人庶民)、スードラ(奴隷)という4つの階級に分けられます。
そして、その制度の中では生まれた階級から死ぬまで抜け出せません。しかし、徳を積むと死後に上位の階級に移動できるとされています。
この輪廻転生思想は上位カーストの人にとって都合が良いシステムという事のみならず、実は下位カーストの人に対しても都合が良いんです。自分が置かれている奴隷状態を自己正当化する事が出来ます。
もし、この輪廻転生説がウソであれば、下位カーストは奴隷状態から脱するために圧制者である上位カーストと闘わなければなりません。でも輪廻転生するなら、徳を積んで来世に上位カーストに移動できるから闘わなくて良いのです。
現に外部の人がインドの下位カーストで苦しんでいる人を助けると、逆に恨まれてしまう事があるそうです。「せっかく苦しんで来世の為に徳を積んでいたのに、邪魔しやがって!」というような感じです。。
ですから、こういった輪廻転生思想を信じている人は何かの根拠に基づいて真実だと信じているわけではなく、自分や社会にとって都合がいいか否かという価値判断に基づいて真実だと信じているのではないか?と思います。
要するに願望と真実を取り違えているのではないかと思います。
こういう事は現在の日本でも良くあります。
例えば、日本人は偉くて外国人は劣っていると根拠なく思い込む人達が沢山います。何か犯罪が起これば「日本人ではなく○○人の仕業だ!」などと根拠なく言う人達。
私も日本人ですし、日本人が優れて清廉潔白な存在であって欲しいという願望は分かりますが、願望と真実と区別しなければ真実が何なのか全く分からなくなってしまいますよね。
「原発安全神話」や大日本帝国時代の「大本営発表」も同じ構造だと思います。
真実が何であるかを知るためには、「こうあって欲しい!」と思うような、願望を真実と明確に区別する必要があるのだと思います。
死とは一体何??
「こうあって欲しい」という願望の外にある本当の死の姿とは一体どんなものなんでしょうか?
それは「知る事が出来ない」という事が現時点で得られるベストな答えだと思うんです。
死後の世界は一体何なのか?無になるのか?何なのか?わかりません。
様々な可能性を想定する事は出来ます。でも、死後の世界は完全に無なのかどうなのかも分からない。
例えば宇宙にはまだ解明されていない事が一杯あります。発見されていない物質ダークマター(暗黒物質)。不思議な動きをする量子の世界もあります。ひょっとすると何らかの形で物理的に死後の世界が存在するのかもしれません。
しかし現時点では全く分からないわけであって、死後の世界はこうだとか断定する事は間違っていると考えます。
もし、無になるのだとしても、無になるとは一体どういう事なのか?これは理解しがたい事でもあります。
無とは一体何??
死後に自分が無になるとすれば、「自分が無になる」とは一体どういう事なんでしょうか?
分かるようで分からない不思議な感じがします。
「自分が無になる」という言葉の意味は何なのか?
「無」という一つの言葉に相容れない複数の言葉が込められていたり、「無」という言葉に本来の意味を構成するための必要な部分を排除してしまっているような感じがします。簡単には理解できない言葉のように思います。
死んで自分と無が同一化したら、自分が無の状態で存在し続ける事になるのでしょうか?
それは違うと思います。死んだら無になるという場合の「無」は、単に何らかの事物が欠けて「無い」のではなく、時間も空間も何もかも無(これを“無A”と記する事にします。)のはずです。
この「無A」になった状態を認識する事は絶対的に不可能と思われます。
何故なら何かが「無」になるという状態を認識するためには、何らかの「事物」が無になる以前か以後の状態を認識する「自分(認識の主体)」が必ず必要になるのではないでしょうか?
無くなるという認識には、「何か」が無くなったという事に気付く「自分」か、以前は無かった「何か」を発見した「自分」という、「自分」と「何か」が必要になってくるはずです。
例えば、
500円玉を落として無くなるという現象→500円が「無くなった」という自分の認識
500円玉を拾った→「無かった」500円を得たという自分の認識
という風に無を認識するための「自分」と「何か」が必要になります。それ以外の無を想像できません。
これは実は「何か」が「有る」という認識を持つ為に必要な関係性と同じなのではないでしょうか?
実は人間が認識できる「無」というものは前述の「無A」では決してなく、「有」と同じで、「何かが”無い”という事実が有る(あった)」という事を認識の主体に指し示す事なのでは。
実態の上でも概念の上でも元々無いものは、無くすことは出来ないはずです。
例えば現実世界にはタイムマシーンは存在しませんが、想像上にはあります。だから現実には「無い」と言えるわけです。そして想像上にはあるが、現実にはタイムマシーンは存在しない(無)という事実が存在する(有る)という風に、「有る」という認識と共にしか「無」という概念を利用し、理解する事は出来ないと思われます。無と有はコインの裏表のような関係性の中という限られた状況でしか認識できないのだと思います。
しかし、何もかもが無いという状態の「無A」。
あらゆる事物も自分という認識者も永遠に存在しない「無A」においては、何かが無い事すら無いのです。
無い事が無いとは一体どういう事なんでしょう??
マイナス同士の掛け算のようにプラスになったりするのでしょうか?謎です。
とにかく「無A」は何もかもないんです。私を含めて無いわけだから、私が有る限り無Aは理解不能。私が無になれば無Aを理解する主体も無くなるので、そもそもどう頑張っても絶対的に無Aは理解不能。という事ではないでしょうか?
ですから、やはり冒頭の結論に戻ります。死後「無A」になるのだとしても、死後どうなるかを理解するのは不可能。という事だと思います。
過去、現在、未来
私は子供の頃から過去や未来が本当にあるのかどうかを疑っていました。
子供の頃には本当は過去は無くて数秒前に世界が突然誕生したのではないか?記憶は嘘なんじゃないか?と考える事がありました。
あるいは、未来は無く、数秒後に世界が全て消えるのではないかと考える事もありました。
今から考えると数秒後ではなくて、それが「今」でも不思議ではないと思います。
「今」世界は誕生したのかもしれないし、「今」世界は消えるのかもしれない。
過去や未来が完全にあるかどうかなんて根拠は無いですから。
しかし、世界は今まで継続してきたという記憶があるので、このまま未来へと続いていくと考える。おそらくこの考えは絶対的ではないにせよ、正しい事のように思える。
でも、この世界が直ぐ消え去るのだとしても、過去は無いのだとしても、とにかく、確実に存在しているのは「今」だけという事は確かだと思います。
未来はまだ現実には存在していないから未来なのであって、もし何らかの方法で確実に未来の状態を見通せたと仮定しても、その見通した未来はまだ訪れていないわけだから、現実にはまだ存在していない。だから未来は概念の中以外には何処にもないという事だと思います。
そして、過去については、前述のように世界が突然生成したのでなければ、全ての過去の出来事は今の状態と繋がっており、今の状態を構成する要素になっているものだと思います。
頭の中では現在と過去というものは何か独立して成立し得るように錯覚してしまいますが、現在は過去と完全に繋がっているのだと思います。
ビックバン説が正しいのだとすれば、ビックバンから現在まで百数十億年という歳月の総和が今の状態です。
とすると、以下のように「今」を捉える事が出来るのではないでしょうか?
今、靴についている砂粒があるとします。
この砂粒がどういう過程を経てこの靴に付着したのか、詳細は全く分かりませんが、宇宙が生まれてから地球が生まれて、動植物が誕生し・・という宇宙の始まりから百数十億年の悠久の営みの結果、この砂粒はこの靴に付着するという結果に至りました。
この砂粒に限らず、目の前に展開されている現実の全てが百数十億年の宇宙の悠久の営みの結果です。
原初から続くあらゆる宇宙の営みが唯一存在する「今」という世界を生成し続けています。
その中に今生きている人が存在しています。生きている人の行動はこの生起し続ける「今」の一部として世界に影響を与え続けます。どういう形で影響があるのかは確実には分かりませんが、呼吸しているだけでもCO2が増えていきます。影響がある事は確かです。バタフライエフェクトのように小さな影響が大きなものになり得ます。
なので、この宇宙が続く限り、人は死によって存在を脅かされる事はないと言えるのではないでしょうか?
人が死後に無Aとなったとしても、その人が生前に及ぼした世界への影響は、「今」という全ての過去から現在に至るまでの森羅万象の結果に影響し、その「今」は宇宙が存続する限り、まだ存在しない未来に向かって生起し続ける。ですから人の死後も、その人が存在したあらゆる証は、この「今」の一部を構成する存在として存在し続けるのだと思います。
未知は希望
死とか、無とか、宇宙とか、、まだまだ分からない事だらけですが、
未知なものがある状態は、希望がある状態でもあるように思います。
プラトンの「洞窟の比喩」というものがあります。これは以下のような話です。
「地下の洞窟に縛り付けられた人々がおり、その人々は洞窟の壁に浮かび上がる影の動きしか見られない。その人々は洞窟の影が実態で世界の全てだと勘違いしている。」
というような話です。これはプラトンが自身の理論を説明するための例え話なんですが、
私はその例え話に出てくる縛り付けられて洞窟の影しか見られない人々をとても羨ましいと思いました。何故なら希望で満ちているからです。
洞窟に縛り付けられている人は無自覚ですが、客観的に見るととても希望で満ちた状況ではないでしょうか?だって洞窟の外に出れば色や形のある輝かしくて美しい未知の高次元の世界が待っているんですから。
死というものも実はそういうものなのかもしれないです。可能性はあります。
しかし、急いで死ぬ必要はないと考えます。だって人はいつか必ず死ぬんですから。それまでは1度きりのかけがえのない人生を大切に生きるべきだと思っています。
そして生きている限り未知な事が存在し続けているのではないかと思います。だから希望も無くならない。
全部理解した!なんて思っても、それは洞窟の影絵が世界の全てだと勘違いしているだけかもしれない。無知に無自覚なだけなのかも。「井の中の蛙大海を知らず」という状態に過ぎない可能性があります。
あるいは、人生が辛く苦しくて死にたいと思っても、それも洞窟の影絵を世界の全てだと勘違いしているだけなのかもしれない。どこかに突破口があって、それを抜けると洞窟の外にある豊かで輝かしい未知の世界が待っているのかもしれません。
ですから、やはり急いで死ぬ必要はないのだと思います。生きてる限り希望がある。
そしていずれにせよ、いつか必ず死ぬんですから。そして、その時が来るのはいつか分からないので、常に準備は必要だと思いますが、その時が来るまで一度切りの人生を大切に生きるべきなのでは。
今回は、自分が子供の頃から考えてきた「宇宙、未来、現在、過去、死、無」など哲学的な事について素人の視点から様々と書いてみました。
何かの参考になれば幸いです。