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「鬼滅の刃」が怒りを覚えるほど不快な作品である理由

鬼滅の刃がつまらない 不快

 

 

※この記事には鬼滅の刃のストーリーのネタバレが掲載されています。

 

 

もう逃げ場はない

 

 

「鬼滅の刃」

 

流行っていますね。

最近はただ日本に住んでいるだけで、「鬼滅の刃は知っていて当然だよね!」「鬼滅の刃は素晴らしいよね!」

というメッセージが絶え間なくやってくるようになりました。※幻聴ではありません

 

今の日本はネット上も含め、ありとあらゆる場所が鬼滅の刃に関連するもので支配されているのです。

コンビニやショッピングモールや観光地・・・。何処に行っても鬼滅の刃のグッズやらポスターやら何やらで溢れかえっています。

こないだは沖縄県のある離島に行きました。本土から遠く離れた場所。そこにも鬼滅の刃のキャラクターのポスターはあったのです。もう逃げ場はありません。

 

 

日本中が鬼滅の刃に乗っ取られています

 

 

私はTVを見ないですが、おそらくTVでも鬼滅の刃に関する事が頻繁に放送されている事と思います。

それは総理大臣までが国会で鬼滅の刃のセリフ「全集中の~」を引用した事からも分かります。

ネット上でもあらゆる場所で鬼滅の刃が話題になっています。

 

そして大学教授などの知識人とされる人々までもが鬼滅の刃を絶賛しています。ある知識人の人は鬼滅の刃から「人間がどう生きるべきか?」という事を学べると言っていました。

その知識人の解説によると主人公は様々な弱さを抱えており、「仲間を助ける為」という理由でのみ圧倒的に強い鬼に対峙し戦うそうです。でも、鬼にも人間の心があり、鬼には鬼の事情があるという事も描かれているとの事。

そして、鬼は現代の競争社会の中の「現代人」のメタファーであり、主人公とその仲間たちは圧倒的に強大なグローバル資本主義の僕=鬼と闘いながら助け合って生存して行く・・。そのような素晴らしい感動的なストーリーなんだと説明をなされていました。

 

子供から大人。庶民から知識人。官民も一体となり日本人の大多数が絶賛する鬼滅の刃。

こうなるともはや鬼滅の刃を知らない事なぞ許されません。

今の日本では誰もが鬼滅の刃を知ってて当たり前。そして鬼滅の刃を好きで当たり前なのです。そしてどんな立場の人も命ある限り「鬼滅の刃はスゴイスゴイ」と言って過ごさなければならないようなのです。

私は普段は漫画を全く読まないのですが、日本中がこのような状態になっているのでいよいよ読まなくてはならないと思いました。

 

そして、ネットカフェで全23巻を読みました。

 

 

怒りを覚えるほど不快な作品でした。

 

 

単につまらないならどうでもいいのです。

しかし、鬼滅の刃の場合はそれで済ますことはできません。

 

鬼滅の刃は説明した通り、日本のメディアも、政治家も、教育者も、大衆も知識人達も諸手を挙げて絶賛している作品なのです。現代日本の象徴なのです。

 

いわば今の日本の時代精神(Zeitgeist)を表す作品なのです。(時代精神[Zeitgeist]何となく響きがかっこいいから使いました。すいません。)

 

しかし、このご時世、この作品を批判する事は難しいでしょう。それは太平洋戦争時に大本営発表を否定するようなものです。私は「引きこもり」で、集団に属さず、社会との接点も限りなく薄いから出来る事だろうと思います。もはや何も失うものがないですから・・・・。

 

 

戦闘シーンばかり。感情的、短絡的、暴力的・・・

 

 

 

鬼滅の刃の戦闘シーンのイメージ図

 

 

鬼滅の刃はとにかく「戦闘シーン」ばかりが大量に登場します。

恐らくこの戦闘シーンが鬼滅の刃の全ページの約8割を占めます。

 

しかもその戦闘シーンはとてもグロテスク。血しぶきばかり。

これらの戦闘シーンが好きな人は単に残虐な暴力が好きなだけではないでしょうか?

 

それはなぜか?その理由を解説します。

 

鬼滅の刃のキャラクター達は物理学も生命体としての常識も無視した存在だからです。

要するに致命傷を負っても奇跡的な事が起きて回復したり、鬼は首を切り落とされても気合で回復したり・・・ようするに何でもありです。

これは鬼滅の刃だけではなくて、ドラゴンボールやハリウッド映画のヒーローものの戦闘シーンも同じだと思いますが、何でもありなら何の意味もないじゃないかという事にしかなりません。

 

現実を舞台にしたストーリーならば、例えば主人公が足を怪我すれば、足を怪我した事がストーリー上の何か重要な変化になると思いますが、死んだと思った人が生き返ったりして、当たり前の常識や前提がいくらでも覆るならば、それに何の意味があるんでしょうか?

そんな戦闘シーンがこの作品の大部分なのです。

そこには意味がない単なる映像があるだけです。その映像とは何か?残虐な暴力です。それは必要のない意味のない残虐な暴力シーン。

なので、この鬼滅の刃の戦闘シーンが好きな人は単に残虐な暴力自体が好きなだけじゃないでしょうか?相当病んでいるのではないでしょうか?

 

そうではないのならば、単に動きのある絵が好きなだけじゃないでしょうか?

もしそうだとすれば提案があります。

カギを沢山つけたキーホルダーがあればそれを目の前に近づけてガチャガチャとふってみて下さい。それによって鬼滅の刃の戦闘シーンと同等の面白さが生まれます。

いや、カギを目の前でガチャガチャさせた方が、光が乱反射してキラキラ光るし、私の場合は鬼滅の刃の戦闘シーンを読むよりも面白いです。

 

これを眼前でガチャガチャ振り回すと鬼滅の刃の戦闘シーンと同等以上の楽しさが発生します

 

 

繰り返しますが、鬼滅の刃ではこの戦闘シーンが大部分を占めます。

 

 

短絡的な「感動シーン」の繰り返し

 

 

鬼滅の刃では短絡的に劇的な場面が唐突に登場し、感情を揺さぶろうとしてきます。

鬼滅の刃において感情を揺さぶろうという手法には幾つかパターンがあって、「家族愛」「弱者を守る」「仲間の為に自己を犠牲にする」「鬼が悔やんで人間の心を取り戻す」など・・。

そういった単純なパターン化されたシーンが繰り返し目まぐるしく大量に登場します。

 

突然、家族愛を表現したかと思ったら、今度は仲間の為に自己を犠牲にする美しさが登場したり・・。

取って付けたような単純さでこれらのシーンが登場します。

それはテレビCMを思い起こさせました。私は今はTVを全く見ていないですが、昔見たものを思い出しました。それらは唐突に短絡的に安直に視聴者の感情を揺さぶって取り入ろうとしてきます。

あの程度の単純な家族愛だとか、あの程度の単純な自己犠牲場面など誰でも簡単に思いつくと思うのですが、なぜあのような物語に感動できるのか理解できないです。

 

 

善悪二元論以下 結局鬼って何なの?

 

 

冒頭で書いた知識人の話を聞いて、私は鬼滅の刃は善悪二元論を超越した話だと勘違いしていました。鬼には鬼の事情がある。確かに鬼滅の刃では鬼には鬼の事情が描かれます。

鬼の中には主人公達を助けるものもいます。鬼にも人間の心があるのです。成敗される鬼も死ぬ間際に「人の心」を取り戻す事もあります。

じゃあ鬼と人に何の違いがあるんでしょうか?

単にお互いが闘っている相手というだけに過ぎないように思う。多くの人間は鬼を問答無用で殺そうとするし、多くの鬼は人間を問答無用で殺して食べる。でも、それぞれお互いに様々な事情があり、お互い様々な感情がある。

 

そんな中、双方が持つ善悪二元論を乗り越え、お互いに理解しあい、譲り合い、平和を築き上げるという展開を私は期待しました。

 

しかし、期待は裏切られて吐き気を催すほどの最悪のラストが待っていました。

 

 

ラストは主人公達は鬼を全員殺して、鬼に殺された仲間達は生まれ変わって蘇ってみんなで和気あいあいウェーイして終了です。

 

 

ウェーイ

 

 

最悪のラスト 読者は鬼に何を投影する?

 

 

これは一体どういう事でしょう?

 

結局、悪とされた者たちを全員殺して解決するならば葛藤する必要も考える必要も何もない完全な思考停止です。頭がパーです。しかも、ラストでは鬼に殺された仲間たちは生まれ変わって蘇ってみんなハッピーで和気あいあいと学園生活などを送っているではありませんか。

 

 

鬼滅の刃で汚された精神を浄化するため祈りが必要です

 

 

 

いのり

人類の誕生よりも前、生命の誕生以前、地球が作られる前、宇宙が誕生する前、私達の先祖が存在する遥か以前から存在しているあなた。名指す事が出来ない存在。あなたは鬼滅の刃を絶賛する日本人たちの姿を見ていらっしゃいますか?そうです。全てが無駄だったのです。申し訳ございません。過去の戦争で犠牲になった膨大な人々、もうしわけありません。農耕を開始した事も、文明を築き上げた事も、ピラミッドを作った事も無駄でした。更に良い社会を築き上げようとする人類の絶え間ない努力や過去の過ちを悔い改める事も全てが無駄でした。ブッタが悟った事も、何の意味もありませんでした。こんな結果になるならば私たちはアフリカのジャングルから出てこなければよかったのです。言葉を習得する必要すらなかった。今でもジャングルでバナナや木の実を食べてればよかったのです。鬼滅の刃などという作品を生み出し崇める彼らをどうかお許しください。

 

 

鬼滅の刃のラストから読者は一体何を学ぶのでしょうか?

 

「相手が人の心を持っていたとしても、敵対する存在(鬼)は全員抹殺すればハッピーになれるじゃん!」という事や「人が死んでも生まれ変わるから良いじゃん!」という事だろう。

 

そして、鬼にも人の心があるなら、結局鬼が倒されたのは悪だったからではなくて、単に弱かったからでしかない。鬼滅の刃が弱者の主人公と仲間たちが圧倒的強者の鬼に立ち向かうというストーリーだというのは誤読である。

主人公たちが圧倒的多数派で強者だから最後には鬼を全滅させることが出来たのである。

要するにこれは弱い者いじめのストーリーなのだ。そして単なる弱い者いじめに留まらず、鬼という弱者をホロコーストし自己正当化する話なのだ。

 

実は鬼滅の刃は善悪二元論でありしかも悪が最後に完全勝利するというストーリーだったのだ。

 

そして、冒頭で書いたように、ある知識人は鬼は「グローバル資本主義の競争社会の中で生きる現代人」という解釈をしていたが、それは飽くまでも一つの解釈に過ぎなく、読者によってこの鬼に何を投影するかは違うだろう。

例えばネ○○ヨの人達だったらこの鬼は韓国や中国の人々などという解釈をするだろう。ネ○○ヨの人達はとても短絡的で感情的で暴力的で差別好きなのでこのような作品は大好きだろう。そしてその「鬼」を虐殺すれば幸せになるという解釈をするのではないだろうか。

そして、登校拒否から引きこもりとなった者としては、ラストで生まれ変わった人間達が和気あいあいと学園生活を送っている事に注目してしまった。これは現実に当てはめて考えると、「鬼」とされた人である虐められっ子、変わった人、問題を抱えた人・・いわば弱者を学校に来れなくさせて排除し、自分たちは幸せに和気あいあいと学校で過ごす事を肯定的に描いているのだ。

いずれにしても、鬼滅の刃は弱者(鬼)とされる人々を排除し亡きものとする力を賛美した作品である。実際にその力は今のこの社会に蔓延している。

 

でも現実は鬼滅の刃の物語とは違い、「鬼」である虐められっ子の人間たちはまだ絶滅させられていないのだ。私は今もこうやって生きているし、鬼滅の刃によって象徴される「力」によって殺されないようにこれからも抵抗し生存し続ける。いつか一矢を報いるために。

 

POSTED COMMENT

  1. ゴギョウ より:

    素晴らしい考察だ。
    私はアニメしか見ていないので、何でこれが流行るの?
    いわいる少年漫画の「王道」じゃんと世間の感性が分からなくなっていましたが。なるほど、奴らの排除欲求や攻撃的な言動を考えれば当たり前の話です。問題視される誰かを悪者に仕立て上げ、いたぶったり、再起不能にして問題を解決した気になって生存の不安と日々の不満から目を背ける。現実、二次元共に余りにも当たり前に接してきたため、少年漫画の「王道」とすら思っていました。
    ”当事者”の私ですらこうなのですから、一般の人たちの感性の鈍さはいかほどでしょう。
    善悪二元論と暴力は、もはや空気同然になり世界に分断を起こして自身も苦しんでいるにも関わらず、私も人々もそれに気づかず”呑気”に過ごしている。嘆かわしい限りです。
    ネット上とはいえ、まともな感性を持った方に出会えて本当に良かった。漫画を見たり、ゲームをするたび感じていた。違和感の正体がようやく分かってきました。

    • 山添博之 Hiroshi yamazoe より:

      ゴギョウさんコメントをありがとうございます。
      記事を読んで頂いてありがとうございます。
      おそらく鬼滅の刃のようなタイプの作品は世界中に沢山あるのだと思います。
      しかし、その様な作品が現在の日本では大流行し、大人から子供まで大絶賛する状態があまりに異常だと感じて、このような記事を嫌われる覚悟で書いてしまいました。
      でも、最近は「キメハラ」(鬼滅の刃ハラスメントの略)という言葉があるようで、私以外にも鬼滅の刃に不快感を抱いている人はそれなりにいるようです。

  2. 父ちゃん より:

    私も同感です。2人の幼い子を持つ親として、鬼滅の刃には強い怒りと憤りを感じています。
    真面目な人たちがこれを見ているんですよ。そして、残虐なシーンがあっても、感動するから教育上良いと言って進めてくるんですよ!クレイジーを通り越して、もはやinsaneだと思います。私もアニメ作品を途中まで見ましたが、逃げ場がない物語は現実社会では応用できません。金魚に例えれば、金魚鉢の外から自分の姿を眺める力が無ければ、現実社会で生き延びることは難しいと思います。そういう意味で、全く役立たずの物語です。
    日本人は精神的に潔癖すぎます。良いもの・正しいものを求めすぎです。
    虫一匹殺せない、いぬや猫をさわれないことどもたちが、残虐な鬼滅の刃を見ているんです。
    おかしいですよ。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」のように、自分たちが暴力の行使の末に生活できているということを、肉や魚を食べる前に親や社会は教育するのが先ではないでしょうか?
    村上春樹氏がオウム真理教に関するノンフィクションの中で述べていましたが、「本能的なコモンセンス」が今問われているんだと思います。
    そういう意味では、日本人のコモンセンスのレベルの低さにはがっかりです。
    おそらく、第二次世界大戦の敗戦によって、戦後急進的な暴力否定のような風潮が続き、そのアンチテーゼとしてアニメ作品の暴力描写が過激になっているのだと思います。

    • 山添博之 Hiroshi yamazoe より:

      コメントをありがとうございます。

      そうですね。仰るように鬼滅の刃は教育分野にも相当浸透していると聞きます。記事に書いたように、このような鬼滅の刃にまつわる今の日本の状況は異常だと思います。

      個人的に特に気になるのは、絶滅させるべき対象として描かれた「鬼=悪」という存在を読者が現実において何に置き換えて捉えるかという事です。
      例えば「鬼」を子供たちが身近にいる「少数派」「変わり者」だと捉えるのならば、イジメや差別に直結すると思います。

      「鬼」とされた人が集団から残虐な方法で攻撃される。というようなイジメ現象は日本各地で昔から起き続けていますが、この鬼滅の刃はそのような集団によるイジメを更に促進し正当化するような物語だと感じました。

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