その他・雑記

なぜ元長期引きこもりが社会の底辺でも希望を失わないのか?

「日本社会」と「長期引きこもり」そして「新しい生き方」

 

 

今回は、「日本社会」とそこから離れた「新しい生き方」について色々と考えている事を元長期引きこもりの私が書いてみました。

この記事が何かの参考になれば嬉しく思います。

 

※この記事における「日本社会」とは

・偏差値や学歴によって人が評価され、就職先が限定され、社会的地位が基本的に生涯固定される。

・新卒一括採用で就労する事が最も良き事とされる。

・5歳以下と60歳以上は除き、就学か就職をしない事は許されず恥とされる。

・学校や職場では終わり無き競争を強いられる。

というような今の日本の社会システム全般を「日本社会」と表現しています。

 

 

また、文字だけでは寂しいので、自分が色ペンで書いた良く分からない絵も記事内に張り付けてみました。(笑

 

 

「日本社会」の底辺からの景色

 

 

 

 

私ほどの「日本社会」における底辺の存在は中々いないと思っています。

私は10歳でイジメを受けてその後不登校になり、小学生以後の教育を殆ど受けていません。

学歴は高校中退ですが、実質は中学と高校には殆ど登校していません。

しかも、自閉症スペクトラム障害を持つ障害者でもあります。

私の就労歴の職種は殆どが非正規労働です。その仕事も長続きせずに転職を繰り返しています。

 

 

「日本社会」では学歴・偏差値によって個人が評価され、就労先が限定され、社会的地位が基本的に固定されます。

そういうヒエラルキーが確かに作られています。そんな「日本社会」で私は底辺中の底辺だと感じています。

今の時代、何だかんだ言ってもみんな高校くらいは普通に卒業しています。

この日本社会で自暴自棄になって何か変な事件を起こした人(失うものが何もない”無敵の人”などとも呼ばれる)

にしても中学や高校くらいは普通に通っている人達ばかりです。

私は中学すらほとんど通学していません。クドいですが、私は相当な底辺です。

 

 

しかし、私には困ってる事や助けてほしい事などは何もありません。

全然絶望していないし、希望を持って目標に向かって自分なりに努力しながら生きています。

 

 

もう私は「日本社会」の中で認められたいとは思ってないです。

学歴競争だとか、新卒一括採用競争とか、元々私には縁のない世界でしたが、そんな事に何か重要な価値があったとは思えないです。

そして、競争して人より金銭の報酬などの条件の良い会社に就職し、更に職場で競争して良いポジションを得る、そんな事も重要な価値があるとは思えません。

 

むしろそうした「日本社会」で延々と続く「競争ごっこ」みたいな事を絶対的に重要だと考える側にこそ真の問題があるのではと思います。

実は助けが必要なのはむしろ「日本社会」の奴隷になってしまっている側なのでは?と思っています。

 

 

「日本社会」の呪縛

 

 

ネットを見ても、本を読んでも、TVを見ても、この「日本社会」に苦しめられている人達は沢山いる事が分かります。

「日本社会」に適応しながら苦しんでいる人や、そもそも適応できなくて苦しんでいる人が一杯います。

 

 

 

 

なぜ「日本社会」は人々を苦しめるのか?

 

それは突き詰めると集団の目標と個人の目標が違うという点にあると思います。

 

大日本帝国のように「日本社会」という集団内では個人よりも集団の意思が尊重され、個人の意思は殺されていく。

その集団の意思というものも大抵の場合は良いものではなく、集団で弱いものを叩く「イジメ」に象徴されるように、怒りや妬みと責任転嫁・八つ当たり。負の感情の集合みたいなもの。

 

 

集団がそういった負の感情で満ちているのは当然で、何故ならその集団の論理でそれぞれの個人の意思を殺してるからなのだと思います。そして意思を殺された人々の不満が弱い対象への攻撃という形で向かう。

しかし、その意思を殺された人々自身が作り上げているのが、自分自身の意思を殺害し続ける「集団主義」であり「日本社会」。

自分たちで作り出している悪夢に自分たちで苦しみ続けているような状況なんだろうと思います。

 

 

論理の飛躍と思われるかもしれませんが、

その集団主義の延長線上にあるのが「戦争」という状態なのだと思います。

集団主義を追求した先においては集団内の矛盾の内部圧力が高まり戦争という形で爆発する。戦争では個人は人を殺すことを強要され自分自身も殺されてしまう。集団の論理の中で個人の意思を殺されて最終的には身体的にも殺されてしまう。

戦争によって殺す相手にしても普通の人間達。普通に働き苦しんだり楽しんだり・・普通に生活している人達。自分達と変わらない。もちろん中には悪い人もいるがそれも自分達の集団と同じ。個人の視点から考えると、そのような人達をなぜ殺さなければいけないのか意味が分からない。

 

私の父方の祖父は太平洋戦争で若くして死に、その兄弟も全員が太平洋戦争で死んでいます。

母方の祖父の方は生きて帰ってきましたが足に銃創が残っていました。戦争の事は何も語らなかったそうです。悲惨な体験をしたのだと思います。

そんな事に参加させられ、個人としての意思も生命も奪われるなんて最悪です。

 

集団主義を追求した先にあるのは戦争。これは論理の飛躍と思われるかもしれませんが、実際に過去から現在まで何度も起こり続けている事ではないでしょうか?今の社会の延長線上にも戦争が直接繋がっていると思います。

 

現にこの日本でも各種SNSやネット掲示板やニュースサイトのコメントなどでネットの意見を見ていると、他の国の人達を口汚く徹底的に誹謗中傷する人達が大量にいます。そしてそれに同意する大量の賛同者たち・・・。

他の国との戦争を訴えるコメントも沢山あり、そしてそれに同意を示す大量の「イイネ」。

まるで如何にターゲットの国の人々を酷い言葉で傷つけられるか、という事を競い合っているかのようです。そしてどんどんエスカレートしていく。そしてお互いの関係を悪化させ壊す事を称賛しあう。そこで求められているのはとにかく両国間の関係を壊す政治家。

そういうものを見ていると、その先にいつか戦争が起こる事を想定する事は論理の飛躍だとは思えません。またいつか戦争が起こる可能性は十分にあると思います。

 

先ほど書いたように、他国の人々も普通に働き苦しんだり楽しんだり・・普通に生活している人達。自分達と変わらない。中には悪い人もいるが、それも自分達と同じですから。何故あのように大人数で誹謗中傷したり攻撃する必要があるのか?個人としては全く意味が分からないですよね。

 

私はそのような集団の一員になるのは拒否します。

(もちろん、日本だけが悪というわけではなく、他の国家や集団でも同じだと思います。)

 

 

話が少し逸れてしまいましたが、

問題は「日本社会」に苦しめられて居たとしても、「日本社会」に適応しなければならないという事が絶対的な義務だと勘違いしてしまう事なのだと思います。

もし「日本社会」で生きる事が苦しいならば、「日本社会」を捨て、自分に合った他の生き方が出来るならば、そうすれば良いいと思います。そちらが良いに決まっています。

 

「日本社会」は勝手に人々が作ったモノなんだから、嫌なら勝手に他の生き方を自分で構築すればいいのだと思います。

 

あるいは「日本社会」との関係を断ち切る事は難しくても、労働するだけの場として最低限の関係に留め、関係を弱めていけば良いのだと思います。

 

でも、私は引篭もっていた頃、「日本社会」というものは絶対的な存在として感じられていました。

まるで「日本社会」に適応する以外には他に生存する術は無いかのように思っていました。

 

多くの人たちも「日本社会」に適応する事を生きる上での絶対的な条件だと思っているのだと思います。

でも現実はそんな事は全くありません。でも何故かそう妄信してしまう。そこが問題なのではと思います。

 

 

「日本社会」に縛られずに生きる方法

 

 

 

 

「日本社会」に縛られずに生きる方法は無数にあります。

 

資本主義が世界を覆いつくしていますから、生存には必ずお金が必要になります。

逆に言えばお金があれば生存できます。だから「日本社会」を捨てて生きる場合、問題になるのはお金だけです。

 

特に今の時代は多様なお金の稼ぎ方が可能になっています。

ネットを使ってお金を稼いでいる人は沢山います。

クラウドワークでフリーランスとして仕事をしたり、物販を行ったり、ブログやったり、アフィリエイトをやったり、電子書籍を売ったり、、、ネットで稼ぐ手段は無数にあります。

あるいは自営業を行ったり、農業やったり、海外に移住して働くことだってできます。

「日本社会」を捨てて独自にお金を稼ぐ方法なんて無数にあると思います。可能性は無限です。

 

「日本社会」で生きるという選択は膨大な可能性の中のほんの一つに過ぎないのだと思います。

 

でも、もちろん、「日本社会」を捨てて生きる事は簡単な事ではないです。

 

 

 

 

簡単な事ではないですから、敗退するとか諦めるという事ではないのだと思います。

「日本社会」を捨てると、自分の全能力を使って真剣に考えて行動する事が必要になります。大きな挑戦です。

 

しかし、逆に「日本社会」の中で生きる場合は簡単なのでしょうか?

「日本社会」の中で苦しんでいる人が大量にいて、毎年大量の自殺者が出ています。

 

特に私のような学歴が皆無の底辺の人間は、日本社会の中では奴隷のような労働を強いられます。

単純に肉体労働で身体的に辛いだけではないです。

例えば私は工場などの現場作業でとても危険な作業を行っていました。一歩間違えば重大な事故になるような仕事を任されていました。

最悪の場合、自分が怪我したりする分にはまだ良いですが、もし人を怪我させたりなどしたら本当に最悪です。金銭的な補償という事のみならず、申し訳ない気持ちが一生忘れられないでしょう。

ましてや、最悪中の最悪の場合は死に繋がる事もあります。そういう危険な仕事をしていると頭がおかしくなりそうでした。(ある意味おかしくなったのかもしれません。)

私の場合、幸い何のトラブルもなく仕事をしてきましたが、そのような仕事をして何とか手取り30万程度の給料を得ていました。

これは「日本社会」の底辺である私のような人間の例ですが、高卒や大卒エリートの人達にも、その人達なりの職場環境における大きなストレスがあるのだと思います。

だから、自殺者が後を絶たない。

ですから、「日本社会」で生きる事も決して簡単な事ではない。

 

このような「日本社会」の中で生きるに際する辛さや難しさに対処する事と「同程度の努力」が出来るならば、「日本社会」の外でも生きていける可能性は十分にあると思います。

 

実際に私は働きながら、以前このブログ以外にブログを運営していました。月に10万円程度のレベルのお金を稼ぐ事は出来ていました。(毎日5000文字以上の記事を書いていて、かなりの努力と根気が必要でしたが。)

これが出来るという事は、考えてみれば凄く重大な事です。何故ならインターネットとノートパソコンさえあれば何時でも何処でも仕事が出来るようになるからです。就職する必要はありません。このようなライフスタイルをデジタルノマドやノマドと呼ばれます。ノマド(nomad)は遊牧民という意味です。現にこういう方法でお金を稼いでいる人達は世界中に沢山います。

 

 

人に頼らない事がとても重要

独自に稼ぐ方法を獲得するために人に頼ったり、情報商材を買ったり有料講座などを受ける必要はありません。それは完全にお金の無駄だと思います。

簡単にお金が稼げるような都合の良い情報を人に教えたりは誰もしないでしょうから。得られるのは表面的な情報くらいでしょう。ですので、

Google検索を使って得られる無料の情報を調べる事で十分。

そして得られた様々な情報を元に自分で考えるという事がとても重要です。

ネットで独自に稼ぐという挑戦を行うにあたって人に頼れば搾取されたり、騙される可能性が非常に高いと思います。

 

 

同じく努力が必要ならば、自分のやりたい事を実現する為に自分に合った環境の中で努力した方が良いに決まっています。

死にたいほど嫌な環境で、特に実現もしたくないような目標の為に努力をする。そんな辛い事は無いと思います。

 

ですから、「日本社会」の中で生きたくない人は、「日本社会」から脱却し独自の手段で生きていけば良いと思います。そして真剣に考えて努力すればどうにかなると思います。

 

(もちろん「日本社会」で生きる事が好きな人は「日本社会」でそのまま生きればいいのだと思います。「日本社会」が絶対悪だとは言いません。)

 

 

正しい生き方って何だろう?

 

 

 

 

今から振り返ると自分がなぜ「日本社会」に絶対的に適応しなければ許されないものだと考えていたのか全く理解不能です。

自分が主体的にそう考えたのではなく、ただ親や教師やメディアに洗脳されていたとしか言いようがありません。

でも社会が一方的に悪いわけではなく、自分も悪いと反省しています。もし10~20代の頃に自分自身で真剣に将来を考える強い意志があれば、そのような洗脳はされずに、もっと若い頃に自分で自分の人生を切り開いたと思います。結局私の意思が弱いからただ受動的になり、洗脳されてしまっていました。

 

 

何故「日本社会」に適応して生きる事が正しいと言えるのか?今では全く理解できないです。

 

 

「学校」って何のためにあるの?

 

 

「日本社会」の基礎を支える「学校」というシステムにしたって、何故ああいう教育・学習方法が正しいとされ、義務とされているのか今では全く理解不能です。

教室という空間で机を前にした椅子の上に同じ年齢の子供達が座らされて、教師とされる人の言う事を一方的に聞くというスタイル。何かを学習するにあたって何故その学習スタイルを強要される必要があるのでしょうか?

何かを学習するには単に必要な情報があればいいのではないでしょうか?

教室になんて居なくても本を読めば学習できるし、今ならPCやスマホに必要な情報を表示させて学習するとか・・・。場所はどこでもOK。学校・教室なんて要らないですよね。

 

例えば「日本の首都は東京」という情報を、学校の教室という空間で学習する事と、独自に本やネットなどで自分で調べて学習する事と一体なんの差があるんでしょうか?

知識の差は何もないですよね。

 

そして今はネットがあるのでネットを通じで必要な学習を何時でも何処でも行う事ができますよね。

ネットを使った独学の方が必要な事を効率的に学ぶ事が可能になるのではないでしょうか。

 

教科書やカリキュラムにしても何故あらかじめ決定されているのかが理解できません。

皆それぞれ目標が違い、学びたい事も違うのだから、学びたい分野をそれぞれが主体的に選び取って学習するべきなのでは。

昔は分野毎の教師や教材などが必要になりましたが、今の時代はネットがあるので学習のリソースは無限にあると思います。

 

 

ですから、この「日本社会」を支える教育システムという根本からしてもはや存在意義が分からないです。

 

 

そもそも、どういう生き方が正解なのか?

 

 

結局のところ、生き方には普遍的に正しい正解なんてないのだと思います。

 

だって、それぞれの人間は生きて最終的に個別に死ぬわけですから、それぞれの人がそれぞれの人生の主体であって責任者です。

 

他者や家族や社会や国は自分ではないし、自分の変わりに人生を生きるわけでもないし、自分の人生の責任を取ってくれるわけではないです。

ですから結局、「自分」で生きたい生き方を決めて、それに沿って生きる。そして、学びを通じてその生き方を更にアップデートしたり修正したり変更したりする。その方法しかないと思います。

要するに普遍的に正しい生き方は無いから、個人で考えて決定する。それしかないのではと思います。

失敗すれば自分が痛い目に合うという事で責任を取る事になると思いますが、自分自身で選択した結果なので納得できますし、後悔もありません。

 

 

 

 

そして、その人生を続けるには生き続ければ良いわけで、生存する方法は無数にあります。

お金を工面する事は真剣に頭を使って考えれば、先に挙げたように無数に方法を考えつくはずです。

 

 

そして死ぬ事は避けたいけれども、もし死んだとしても、

自分で選んだ生き方を生きたなら最終的には後悔はないと思う。

いずれにせよ結局人間はいつか死ぬわけですから・・。

 

 

妄信・洗脳から目覚める為のヒント

 

 

 

 

私は先に書いたように「日本社会」に適応するしか生きていけないと子供の頃から妄信していました。

その妄信が解けて来たのは30歳頃です。

 

子供の頃のイジメ、長期引きこもり、職場で辛い経験、などを通じて少しずつ目覚めてきたという気がします。

そして海外を旅し、色々な経験を通じて完全に変わったという実感を持つようになりました。

 

 

人間の「意識」 洗脳状態から目覚める為に

 

 

人間の「意識」がどうやって形作られるかという事はまだ科学的には解明されていません。

仮説は色々あるようですが、いまだ謎です。

 

 

 

 

私は以前の記事にも書きましたが、海外一人旅をしている時に自分の「意識」が全く別物に変わってしまうというと異様に不思議な体験をしました。

一人の人間の中に今現在の「意識」とは全然違う「意識」の状態が発生したのです。

 

そして、身体的には同じものなのに、「意識」が変わると、世界自体も全然違うものになりました。

まるで、テレビのチャンネルを変えるかのように全然違う世界に切り替わるのです。

 

これは、眠って夢を見ている時の事を想像されると分かるのではないかと思います。

夢の中の世界では意識が普段とは違っています。そして現実とは違う世界を見ます。

 

要するに「意識」が別の状態に変わるという事が起こり得るという事。そして「意識」が変われば世界の捉え方や見え方が変わり、世界自体が変わるのだろうと思います。

 

ですので、現在の「意識」状態や世界の捉え方だけが絶対的に固定されたものではないという事です。

 

今の「意識」が絶対的に固定されたものでないならば、別の考え方に変わり得るという事。その事実が妄信や洗脳から目覚める為の一つの知恵になるのではと思います。

 

そして、夢の中の世界だけではなく、現実にも別の「意識」の状態を持っている人々が沢山いる。

例えば別の国には「日本社会」とは別の世界・現実が存在します。

 

海外旅行に行った人なら分かりますが、海外は異世界。似通っている部分はあっても、やはり日本はとても特殊な国ですから他の国とは大きく違いますよね。

 

分かり易く極端な例でいうと、例えばアフリカの部族社会や遊牧民の生活などは「日本社会」に生きる人々の「意識」とは違うものだという事は想像できると思います。

 

そういう別の国の次元というものを実感する事で、「日本社会」で生きる人々とは違う「意識」の状態というものを想像する事が出来るのではと思います。

海外体験で「日本社会」の中で生きる事を絶対視するような「意識」は変わり得るのではないかと思います。

これも「日本社会」で生きる事を絶対化する洗脳から脱出するための一つのヒントになるのではと思います。

 

 

最後に

 

 

 

 

この記事のタイトル「なぜ元長期引きこもりが社会の底辺でも希望を失わないのか?」

 

その答えは自分で選択した生き方を主体的に生きているからという事になると思います。

社会や他人なんてどうでもいい。自分のやりたい事を自分の力で行う事を続けていく。そんな人生に目覚めれば、希望を失う事はありません。

そしてもし、自分の中で何か達成したい目標があり、死ぬまで結局その目標が達成できなくても後悔はありません。自分の責任で選んだ人生ですから、全てが納得できます。

 

 

今回は、旅行記ではなく「日本社会」や、そこから脱却した「新しい生き方」について考えている事を元長期引きこもりの私が様々な観点から書いてみました。

読んで頂いてありがとうございました。もし、何かの参考になれば嬉しく思います。

 

 

ちなみに、今回は自分が色ペンで書いた良く分からない絵も記事中に張り付けてみました。(笑

絵を書くというのは小学生以来やった事は無いのですが、去年の夏に突然絵を書きたくなって半日くらい絵を書くことにはまって何枚も書きました。

紙の上に何も考えずに「無意識」にペンを走らせていくと、自分の中の「無意識」が絵という形で表れてくるような気がしました。とても面白い体験でした。

そういう手法で描いた何枚もの意味不明の絵が出来上がりました。後日、絵を書く事には全く興味がなくなり、絵を書くことはその後無くなりました。夢を見ていたような不思議な体験でした。その時に描いた絵を今回の記事中に何枚か張ってみました。

 

 

後にアムステルダムでアウトサイダーアート展に行きましたが、作品に共感できるものがありました。これらの作品を見ていると自分の絵を思い出しました。

自分は長期引きこもりで自閉症スペクトラム。相当な社会のアウトサイダーなので、アウトサイダー同士で相通じるものがあるのかもしれません。

 

アート(芸術)というと何か高尚なものを感じさせる語感がありますが、アウトサイダーアートは基本的に美術の訓練も何も受けていない素人が描くものです。ですから生の芸術とも呼ばれます。教育や訓練で色付けされていない人間本来の芸術です。

 

そのアムステルダムのアウトサイダーアート展では精神病などの人達が独自に描き出した沢山の芸術作品を見る事が出来ました。人間の精神がそのまま描かれたような作品でした。本当に凄かったです。お金を払って多くの人達が見に来る理由が良くわかりました。

 

 

アムステルダムのアウトサイダー展の作品の一部

 

 

アートの語源を辿るとその意味は「生きるための知恵」よってアウトサイダーアートは「アウトサイダーによる生きる為の知恵」

そこに作品を展示されていたアウトサイダーアーティスト達は、正に「生きる為の知恵」によって金を稼いで生きているんですよね。

 

 

私は絵を書く事には特に思い入れはないので、絵という意味ではないですが、そういう種類の知恵をもっと獲得したい。

 

そして、そういう知恵のようなものをブログなどを通して今後も表現して行きたい。そしてそれが誰かの役に立てれば良いなと思っています。

 

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