その他・雑記

私が長期間引きこもった原因について

私の引きこもりの原因を自己分析

 

 

 

私は約10年間重度の引きこもり状態でした。

今回は、私が何故そのように長期間重度の引きこもり状態となるに至ったのか?

その原因について掘り下げて書いてみたいと思います。

 

 

私の原因

 

 

私は今まで多くの方々の引きこもり体験談を読み、引きこもりになる原因は非常に多様である事を知りました。それら体験談を読んで特に意外だったのは、引きこもった原因をご自身でも明確に分かっていないという方々が多くいるようでした。ご自身が引きこもった原因を何か抽象的で哲学的な難問のように捉えている方々が多くいるようでした。

 

しかし、私の場合は幸か不幸か原因はとても明確で単純なのです。

 

私はYouTubeビデオや他のブログ記事などで言っているように、小学生時代に同じ学校に通う近所の子供集団から毎日のように、アザだらけになるほど激しい暴力を受け続けた事から、対人恐怖症となり、不登校・引きこもりとなりました。不登校となった事で親子関係が崩壊しました。その後は、親・学校・社会から完全放置された結果、長期間重度の引きこもり状態で過ごすことになりました。

 

なので、要するに集団からの激しい執拗な暴力(いじめ)を受けた事が私が引きこもりに至る決定的な原因でした。

 

 

集団からの執拗で激しい暴力が引きこもりの原因でした

 

 

集団からの執拗でアザだらけになるほどの激しい暴力。

それさえ無ければ、私は不登校にならず、家族関係が破綻することもなく、公共教育、高等教育などの社会のリソースを存分に享受しながら、大学を卒業し、就職し、社会と調和し、いわゆる「普通の人生」を送っていたように思います。

 

しかし、この考え方は一面的であり、間違っていると言われる方もいらっしゃるかもしれません、例えば以下のように。

 

 

いじめられる側に原因が?

 

 

世の中には「いじめられる側に(も)原因がある」と言う人も少なくなくいます。

確かに、その様なケースもあるかもしれません。もし、暴行される側に何かの原因があるならば、暴行された側が暴行された原因について考え、反省し、改めなければならないかもしれない。例えば、暴行される人がそれまでに何か悪い事をしていた場合があるかもしれない。

 

しかし、私の場合は一体何をどう考えても当時の私が集団から暴行され続けたその原因が分からないのです。

 

 

「いじめ」のターゲットは一体どのように決定されるのか?

 

 

もし、現在の自分であるならば、長期の重度引きこもり経験者であり、社会のレールから遥か外れて、もはや異次元に生息している異星人のような存在と化しているので、もし「一般社会」の人々からいじめのターゲットとされたとしたら、異質なものを排除しがちな日本社会の原理から考えるとその原因の理解は出来ます。

 

しかし、当時の私は多少「大人しい」という特徴があるだけの普通の子供でした。私は何の問題行動も起こさず、学校の授業を真面目に受け、成績は問題ありませんでした。友人も複数いました。友達と一緒に自然の中で遊んだり、仲良くゲームで遊んでいました。学校教育や地域社会に適応した普通の子供だったのです。

 

また、私は大人になってからASDだと診断されました。「ASDだからいじめられるのだ」と言う人も存在する。

しかし、自分よりも内向的で喋らない大人しい人はいたし、共感性のない人、暴力的な人、頭の良い人、頭の悪い人、金持ち、貧乏人、オタクっぽい人、ヤンキーっぽい人・・・自分よりも様々な濃い特徴のある人が沢山いました。そして、私を暴行してくる人の中にはむしろ私よりもASD的な特徴の強い人もいました。

 

だから何故、当時の私がその集団暴行のターゲットになったのか全く分からないのです。どう考えても原因がわからないのです。当時はその他大勢の子供と同じく「普通の子供」という存在だったのです。

 

なので、私にはランダムに集団暴行(いじめ)のターゲットが決定したようにしか思えないのです。

たまたま、私がそこにいたからターゲットにされたとしか思えません。まるで、通り魔のターゲットのように。

 

 

無差別殺人といじめの関係性

 

 

ランダムに選出される被害者

 

 

しばしば、日本では通り魔・無差別殺人が起こります。その犯人が子供時代にいじめを受けていたと明かされる事がしばしばあります。そして、犯人の卒業文集や学生時代の写真がネットに流れます。そうするとネットでは「あのようなダサいやつは虐められて当然であり自分とは違う」、「よって無差別殺人を起こすような人間と自分は違う」というような反応が沢山現れます。

 

しかし、そもそも多くの人にとって自分の中学生時代の卒業文集や写真などはダサくて恥ずかしいものなのではないでしょうか?いじめられたことのない人達やいじめを行っている人達はメディアを通じて、いじめ被害者全体をスケープゴートにして偽りの安心を得ようとしているように思うのです。

 

もちろん、明確な何か特殊な原因があっていじめのターゲットになる場合もあるでしょうが、誰にでもターゲットになりうるというランダム性が多くの場合において、「いじめ」のターゲットを選定するアルゴリズムの基本原理であるように思うのです。そして、「いじめ」には程度があります。少し悪口を書かれる程度のいじめから、自殺の直前まで追い込まれたり、本当に自殺させられたり、殺害される場合もあります。

 

私は無差別殺人などを行う事は反対だし、そのような行為を起こさないと自信がありますが、理由なくいじめられ、そのトラウマによって自殺直前まで追い込まれ無差別殺人を行う人達がいるとすれば、その人達の「気持ち」を論理的には理解できるのです。

 

ランダムに人々からいじめの標的とされ、そのトラウマによって人生を破壊され、自殺の寸前まで追い込まれた場合、その苦しみを人々に理解させるために、通り魔という形でランダムに人々を殺害し、自己の死は自殺か死刑によって遂げる。それは殴られた痛みを他者に思い知らせる為に殴り返す事と同じ性質の行為であり、理論として一本の筋が通ってるように思うのです。

自分が理由なく自殺に追い込まれ殺されるなら、死ぬ前に自分も理由なく人を殺してから死を遂げるという行為。

これは、ハムラビ法典の「目には目を・・」という思想が示すその意味においては単に一人で自殺するよりも、正義であり、義務でもあるようにすら思います。これは「やられたらやり返す」という世の中の普遍的な道理にも基づいている。と言えます。

 

 

「目には目を、歯には歯を」-ハンムラビ法典196・197条

 

lex talionis = 同害復讐法

 

 

ただ、自分はそんな事はしません。嫌なのです。殴られるのも嫌だけど、殴る事も嫌なんです。人を殺す事は絶対嫌なのです。

 

そして、そもそも単にやられたらやり返すというような普通でありきたりのレベルの事では自分の中にある狂おしいほどのコンプレックスや怒りが解消される事もないように思うのです。むしろ、この狂おしいほどのコンプレックスや怒りを利用してもっと凄い事をしたいと思うのです。

そして、それは可能なのでは?と思っているのです。

例えば、数式内の一つの記号を変える事によって結果が大きく変わってしまうように、重度の対人恐怖、長期引きこもりという非常に大きなマイナスを利用して理屈をこねくりまわせば宇宙がバグったみたいな恐るべき何かを生み出せるのでは?と考えています。

 

 

集団暴行のトラウマ「対人恐怖」

 

 

子供時代に受け続けた集団暴行によって私は重度の対人恐怖症になりました。

 

また同じような状況に陥るのではないかという恐怖から人を徹底的に避けるようになりました。人と面と向かって会話することもできず、頷くか首を振るかでしか意思表示をしなくなりました。

そして、人への恐怖だけでなく、人に対する信頼感が決定的に損なわれました。私の友人たちは、私が集団暴行の標的となった瞬間、全員裏切り、私を暴行する側に嬉々として参加したのです。これによって人を信頼することが不可能になりました。

また、親、学校、社会に対する信頼が決定的に損なわれました。

集団暴行を受けていた当時、学校や親や地域社会は誰も私の味方をしませんでした。全員がタッグを組んで敵対してくるのです。全てが敵だという状況は完全なトラウマとして身に沁みついています。

そして、私を毎日毎日、暴行し、不登校に追い込んだ彼らは、その後、優等生として教師に認められ、大学を卒業し、就職し、結婚し、子供を作り、何食わぬ顔をしてこの社会に「普通の社会人」として生きているのです。もし、彼らがヤクザなどになってたらある意味納得できるのですが、全くそのようなことはなく、役人等になって社会的地位を得て生きているのです。

 

その事実は、地元の新聞に彼らの一員が掲載された事や、10年ほど前に地元で働いていた時に彼らの知人から聞いた事、そしてネットで彼らの事を検索して分かりました。彼らは家族と仲良く、地域社会と溶け込み、自分の子供たちと和気あいあいと過ごしているのです。

 

 

和気あいあいと家族で過ごし、幸せで豊かな生活を手にした彼ら

 

 

しかし、そのようなサイコパスのような酷い奴らが社会の一部にいるというだけなのかもしれない。運悪くそのような連中ばかりが私周りに集中して存在していただけなのかもしれない。そもそも、私は全ての人に出会った事もない。だから、人々全員や社会全体を嫌悪し恐怖するというのは非論理的だと思う。

でも、トラウマが心に刻み込まれており、人を信頼することが生理的にもはや無理なのです。論理的に間違っている可能性があるかもしれなくても、他者を信じる事が出来ず、人間関係を創る事にアレルギーが出るようになってしまったのです。

 

 

他者の一体何が怖いのか?

 

 

私の心に深く沁みついている「対人恐怖」。

 

そもそも、人を怖がる、疑うという事はある程度は必要な事だと思う。
全く人を怖がらず、疑う事も無ければ、詐欺やカルトに騙され続けるだろう。
だからある程度、他者に対する恐怖や疑いは持つべきだと思う。

しかし、怖がる度合いが強すぎると私のように閉じこもってしまう。

 

でも、先にも書いたように、他者を無条件に恐れることは論理的に間違っているように思う。今の自分の認知は間違っているので、自分の認知を自分で何とか修正する為に考えを改めなければならない。

 

そういった考えの下、自分の「対人恐怖」について自己分析をしてきた。私の対人恐怖には1つの特徴がある。それは全ての人を普遍的に怖がっているわけではなく、「日本人」のみが特別に怖いという事。

 

私自身も「日本人」。母方も父方も先祖は大日本帝国の軍人。客観的には私は間違いなく日本人だし自分でもそう思っている。自分自身が日本人であるのに日本人が怖いのである。

でも、「日本人」は特別に恐ろしいが、日本人以外は特別に怖いと思う事はないのです。

 

私は海外を一人きりで放浪し、何人もの外国人と人間関係を作ってきました。日本人のリアル友人は一人もいないのにも関わらずです。

しかし、海外のほうが犯罪に遭う確率が高いはず。海外には旅行者を狙う犯罪者たちが実際に沢山います。

でも、一人きりでロシアでヒッチハイク旅行をしたり、カンボジアのスラム街に入って行ったり、軍人の人に頼んで軍の施設で銃を撃たせてもらったり。そのような本来は怖いと感じるはずの事が海外では一人きりで普通に出来るのです。

 

 

ある軍の施設でマシンガンの射撃をしてみました

 

 

日本では他者に声をかける事すら全くできないのに。

 

日本ではその辺を歩いている人に道を聞いたりする事は怖くてまず出来ない。どうしても会話が必要な時は震えるくらい異常に強く緊張するのです。

仕事をしている時には日本人と沢山接してきたが、毎回、強い恐怖と嫌悪感が付きまといます。何度日本人との会話を経験しても永遠に慣れないのです。これは日本人集団によって植え付けられた日本人に対するトラウマだからこのように日本人を生理的に恐怖し嫌悪するようになったのだと思う。

 

今でもそう。むしろ今の方がこの対人恐怖は強化されているかもしれない。だから、引きこもりの居場所はおろか、オンライン当事者会(現在流行っているらしい)にすら参加する勇気すら無限に出てこない。でも、今ではそれでも構わないと思っています。

 

 

海外で出会う日本人集団

 

 

私の認知がおかしいのだと思う。人に対する危険性の評価基準が間違っており、怖がる対象がおかしいのだと思う。分かっているけど、どんなに試行錯誤してもそれを修正できない。

20代の頃はこの自分の対人恐怖を治すために精神科に通ったり、居場所に通ったり、宗教にすら一時的に入った事がありますが、決して治りませんでした。

日本人集団から植え付けられたそのトラウマによって私はそのような「修正不可能な狂った認識」を原理的に持つようになったようです。

 

 

しかし、その結果、全く別の自分の可能性が生まれました。それは例えば、「日本人」を恐れて嫌悪し、避けるあまりに日本という「狭い世界」の外にある広い世界に繋がれたことです。

 

海外を一人で放浪している時に私にとって象徴的な出来事がありました。

 

海外の有名都市では日本人のツアー大集団にしばしば出会います。私から見ると彼ら(/彼女ら[以降は略す])が凄く変なのです。彼らは街中でお互い離れないように密集して歩いているんです。日本人の大行進です。

 

何故か日本では中国人のツアー集団のマナーの無さばかりが注目されますが、日本人のツアー集団も相当変なのです。

 

列を作って行進する彼ら日本人のツアー集団の表情は硬く真剣。「離れて迷子にならぬようしっかりと群れていなければ!」と彼らは思っているかのようです。

海外の街を肩を怒らせ行進する彼ら日本人男女大集団で構成されたツアー客の独特の雰囲気からは「自分を守りたい!」「リスクを絶対に取りたくない!」「危険な目に絶対に遭いたくない!」「だから常に集団の中にいるのだ!」というような強い自己保身の意思を感じました。

 

 

2列に並んで海外都市を行進する日本人ツアー集団のイメージ

 

 

もちろん集団行動した方が、襲われるリスクは下がるでしょう。安全性の観点で考えると論理的な行動なのだと思います。でも、その街に住んでいる人々はその環境の中で毎日生きているのである。自分達だけあのように行動するのは失礼なのではないだろうか?まるで地元の人々を犯罪者扱いしているかのようである。そして自分達だけは集団の中に身を置いて守られたいと思っているのである。

 

あまりこういう事は書きたくありませんが、大の大人が街中でそのような集団行動を行う事に何とも言えないダサさを感じました。彼らの姿は集団登下校する幼稚園児や小学生を彷彿とさせました。まるで、幼稚園児のメンタリティのまま大人になったかのような集団に見えたのです。そして、異国の風景を汚されたような気分にもなりました。

 

 

そして、ある海外の教会を訪れた時には20人程度の「日本人のツアー集団」と遭遇しました。

彼ら以外に教会の中には地元の人々や様々な国から来た観光客達がいました。その20人くらいの日本人のツアー集団たちは教会の一カ所に密集して集合していました。

 

そして、ツアーガイドがその日本人集団に「これは○○時代に○○によって書かれた壁画です」などと教会の壁画の解説を行うと、その日本人の集団がその壁画を見ながら「おおー」という歓声を皆で揃って同時に上げるのです。そしてツアーガイドがまた別の壁画の説明をすると、それに呼応するように日本人集団がまた「おおー」と同時に声を上げたのです。

彼らはただ何度も何度もそれを繰り返し、教会を去っていきました。「おおー」の合唱を何十回か繰り返して、それ以外は何も言う事もなく日本人集団は去っていったのです。

 

 

教会の壁画を見て息を合わせて「おおー」と言う日本人集団

 

 

この「おおー」は丁度、テレビのバラエティー番組の観客達が、タレントが何か「凄い芸」などを披露した後に行う典型的なリアクションである「おおー」の感じと同じでした。低い声でどこかやる気ない感じで皆で声を揃えて彼らは「おおー」と一斉に発声するのです。

 

 

例えば日本のTVのクイズ番組でタレントが難問の正解を出した時の観客の声援「おおー」

 

 

あの人達の中では「何か凄いとされるモノを見た時」の正しい反応は、バラエティー番組に登場するあの「おおー」という声を皆で息を合わせて一斉に出す事なのでしょう。

 

そして、おそらく彼らの中ではそのような反応をする自分たちは「普通の日本人である」と考えているのでしょう。確かにそれが「普通の日本人」なのだと思う。普通の日本人である彼らは普通の日本人として「おおー」という普通の日本人としての独特の表現方法を普通の日本人として自信を持って皆で揃って声に出して何度も何度も表現していたのでしょう。

 

しかし、こちら側から見ると、その集団はまるで、カルト宗教に洗脳された信者集団のようでした。異様な集団に見えたのです。「おおー」という奇声を定期的に皆で上げる異様な儀式を行っているようでした。この時は日本人集団に属せない異常者であるはずの私の方が遥かにまともな気がしたんです。

 

もし、自分が日本社会に調和していたら、私自身もあの集団の一員となり、海外で地元の人々やその他大勢様々な国から来た観光客の面前において皆で密集し、息を揃えてツアーガイドの解説に呼応するように「おおー」という声を出す事を何十回も繰り返す人になっていたかもしれないのです。

 

それは恐ろしい事です。

 

 

トラウマは多義的な要素が

 

 

ここまで自分が引きこもった原因を起点に様々な事を書いてきましたが、要するに悲劇的な出来事には多義的な要素があり、良い部分も悪い部分もあるように思うのです。

 

集団暴行という形のいじめを受けたトラウマによるどうしようもない痛み。

 

痛みは間違いなく不快なもので、痛みを痛がる事は避けられなく、癒えない痛みの場合は、その痛みに死ぬまで苦しみ続ける事になるので、痛みを負う事は絶対避けたい嫌な事である事は間違いがないのですが、人生塞翁が馬というように負の出来事から良い事が派生して出てくるという可能性は否定出来ないと思います。

 

また、別の能力が磨かれるという事もあり得ます。

 

例えば、何かの能力が欠損すれば別の能力が磨かれるという事。耳の聞こえない人が読唇術を身に付けるように。

 

自分が筋トレしているのも、英語学習しているのも、舐められて、またいじめの標的にされたくはないという事が背景にあると思う。本当は私は筋肉とか物理的な力を彷彿とするものは嫌いなんです。しかし、いじめてくる人は大抵そのような事を重視します。身体的に強そうな人は虐めのターゲットにはなり難いという点は確かにある。だから仕方なく筋力トレーニングをしているという部分があります。

英語を学習しているのも、いじめ対策でもあります。いじめというのは大抵の場合、とても勉強が非常に苦手なタイプの人も多くいじめる側に参加しています。少し英語が出来るだけで、勉強が非常に苦手なタイプの方々からは舐められ難くなり、彼らからはいじめられ難くなるのです。いじめの標的にされないのであれば、舐められるとか舐められないとかそんな下らない事は本来どうでも良いんですが・・。トラウマによって舐められないような能力を獲得しなければいけないと常に迫られるのです。

 

 

トラウマには多面性が・・

 

 

トラウマによって新たな可能性に繋がり、トラウマが新たな能力を得る為のモチベーションにもなっている。

このように書くと、まるで、集団暴行という形で毎日いじめられ、トラウマを与えられ、対人恐怖に苦しみ、人生を破壊された事が良かった事として整理されるべきだという結論になってしまうかのようです。

 

でも、トラウマを与えられた事が本当に良かった事か否か?その点は割り切れず、自分の中で矛盾を抱えています。

 

いわば、この点においては心が二つに分裂しています。ある時はいじめられて良かったと思うが、別の瞬間は復讐してやろうかと思うくらい怒りに支配されます。心が感謝と怒りとの間を行き来しています。まるで睡眠から目が覚めるか覚めないかの境界線上にいる時、夢と現実を行き来するように。分裂した心において、あちらとこちらを、行き来するのです。日々心が変わります。

 

でも、怒りの方に大きく振れたままになり、無差別殺人などを犯してしまわぬように、自己をコントロールしたいが為に日々内省し考えています。この文章もそのために考え、書いています。何とか無差別殺人に至らないような論理を構築して虐められた事を前向きに捉えようと思索しています。

 

一歩間違えば、取り返しのつかない事をしてしまうかもしれない。恐ろしい事です。しかし、それを行う事が正しい事のように思ってしまう時がある。トラウマを乗り越えるというのは厄介な作業です。死ぬまで終わらない作業のように思います。取り返しのつかない事に及んでしまわぬように、今後も日々内省を続けながら、私のトラウマがもたらしてくれた「良い事」を更に発掘して行きたいと思います。

 

 

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