その他・雑記

米コロラドからの訪問者 : 対話から得られたもの

新たな出会いに感謝

 

 

昨日、YouTube発信を通じて知り合った米国人と出会うことができ、様々な学びがあったので、その事について忘れないうちに記事として残す事にしました。

(前回の記事においては、次はスペイン&イタリア放浪旅について記事を書くと書いていましたが、それはまた別の機会に書きます。)

 

昨日は、米コロラド州在住で私とオンライン上の友達であった人と出会ってきました。彼とはYouTube発信を通じて知り合いました。

 

そして、彼は私のDiscordサーバーのメンバーとなり、私が仲介者兼翻訳者として参加させて頂いた「第3回引きこもり文学大賞」にも作品を提出してくれました。

ちなみに、彼もYouTube発信をしていて、昔の動画には100万回再生を超えるものもあります。彼のチャンネル→Dahveed02

 

 

その日、私は彼と延々と話しながら、都内を歩き回りました。千鳥ヶ淵周辺、東京タワー、渋谷、上野・・様々な場所を歩きながら、Hikikomoriの事、精神医療に関する事、精神的苦しみの事、日本の事、アメリカの事、お互いに様々な事を沢山話しました。

歩きながら、レストランで食事しながら、電車に乗りながら、合計7時間位は対話していたと思います。こんなに長く会話をし続けたのは人生で初めてであり(しかも英語で)、自分の中にこんなに多くの言葉が眠っていたとは思ってもいませんでした。

 

 

昼食のわかめそば。彼は天ぷらそばを食べていました。

 

 

とても有意義な時間を過ごす事が出来て彼に心から感謝しています。一番嬉しかった事は、彼が私のガイドを喜んでくれて東京を楽しんでくれた事でした。

 

この昨日の経験の中で色々な気付きがあったので、忘れないようにこの記事に書いておく事にしました。

 

 

長時間話す -その効果-

 

 

これは彼との対話の内容とは関係ありませんが、対話の時間の長さって重要だなという気付きがありました。

というのも、例えば10分程度の会話だと、何か言い忘れたり、十分に表現したい事を話しきれない場合があります。

 

東京タワーを案内。様々な場所を巡りながら沢山話をしました。

 

でも、7時間とか超長時間の対話していると全部言いたい事を存分に話せます。後に、時間が経過すると、また話したい事は出てくるでしょうが、その時点で言いたい事はほぼ言い尽くした感じになります。これにはある種の満足感というかカタルシス(鬱積した感情が浄化されるような現象)を感じました。

そして、対話相手の全体像が見えてきます。例えば、典型的な政治家のスピーチにおいて彼らは自らが聖人君主であるかのような事を言いますが、長期間対話をしていると、そのような一面的な部分ではなく、地金のようなものが現れ、お互いの本当の姿や全体像をうかがい知る事が出来ます。

これは会話内容からだけではなく、表情や、第三者(レストランの店員さんなど)への態度や、身体的な体力(どれくらい歩くことで疲れるか)・・etc などから相手の本当の姿が分かるようになってきます。

 

そして、ずっと話していると疲れるし、疲れると何を言っているのか分からなくなったり、言い間違えたり、しばらく無言になってしまったりします。

かと思えば、話しているうちにまた元気になって、突然に面白く充実感のある対話が始まったり・・。

 

長時間会話をしていると、波のように気持ちが上がったり下がったりを繰り返します。その中でお互い相手が信頼できるかどうかなどが見えてきます。なので、7時間だとか超長時間対話し続ける試みは他者の全体像を知る上で大変効果的な事だと思いました。

 

 

自殺という行為が抱える矛盾

 

 

現実は一種の仮想空間?

 

 

これは彼と対話していて再確認した事です。彼は躁うつ病を患っており、5回精神病院に入院しています。彼が言うには躁状態の時は、「自分が神だ」と思うような程に最強で無敵であるというような気分になるそうです。その万能感から無謀な事をしてしまい、大変な事になり、自殺をしたいと思うようになるそうです。

つまり、躁鬱の鬱の状態の時に死にたいと思うのみならず、躁の状態の時にも死にたいと思うようです。彼は私のYouTube発信をよく見てくれていて、私が以前投稿した「自殺」に関する考えを語った動画についてとても興味を持ってくれていました。

私は小さい頃のトラウマ体験(小学生高学年の頃、集団暴力のターゲットとなり、いじめられ続けたが、親も学校も地域も誰も味方してくれなかった)の後、自殺願望を持つようになりました。何度も誰にも知られず自殺未遂をした後、やっぱり怖くて死にきれないと思い、生きる事にしました。

そんな事もあって、私は昔から自殺について自分事として色々と考えていました。そしてこの↓

 

「自殺と意識について」

 

という動画を2年前に作りました。私は上手く説明できたか分かりませんが、この動画では、自殺は矛盾を孕んだ行為であるのではないか?自殺する人は何か究極の勘違いをしているのではないか?という私が常々感じていた疑問の説明に挑戦していたと思います。多分。(なぜ「多分」かというと、2年前の自分を見返すのが妙に恥ずかしくて確認できません。笑)

彼はこの動画に興味をもっており、この話題になりました。

私はこの動画の中で、その矛盾を以下のように例えていたと思います。私たちはいわば現実というゲームをプレイしており、強敵が現れるなどして、ゲーム世界の中に苦しみの要素があるのに、自殺はゲーム機自体を破壊する行為でナンセンスなのではないか?と言っていたはずです。

そして、この動画の結論部分は「死は謎であって、救いである可能性もあるが、どのみち、いずれ私たちは死ぬのだから、死ぬという不可逆的な選択を急いで行う必要は無いのではないか?」というものだったと思いますが、

この結論部分にとても彼が共感してくれたのです。実は最近、死にたいとしばしば突発的に思う事があったのですが、自分自身が言っていたこの論理を他者から直接聞かされ、賛同され、この思想(~急いで死ぬ必要は無い)を再確認し強化する事が出来ました。

 

 

大破局は終わりでなくスタート?

 

 

私たちは上野公園のベンチに座りながら、不忍池を眺めていました。何故か、彼が「3回引きこもり文学大賞」に提出したエッセイについての話になりました。

彼はそのエッセイの結論部分で、人類が開発したテクノロジーによって「大破局」がもたらされる可能性があるが、もしそれが起こっても、人類が新たなステージに到達するために必要なプロセスであると肯定的に受け入れるべきであると書いていました。

私はある事を思い出しました。

 

 

上野公園の不忍池

 

10年ほど前に東京を放浪旅していた時、正にこの上野公園を散歩していた時に、高齢女性とその家族と思わしき人々が歩きながら話していました。高齢の女性は言っていました。

 

「この辺りは戦争で焼け野原になってたのよ」

 

それを思い出した私は彼に言いました「この辺りは第二次世界大戦で米軍の爆撃によって大破局が訪れた。でも、現在は高層ビルが立ち並び、人々は平和的に散歩している。これは貴方のエッセイの結論が正しいという例の一つだと思う。つまり大破局は新たなステージへ到達するためのプロセスかもしれない。」

彼は言いました。「なるほど。私はそのように考えた事が無かった。私のエッセイの結論は既に起こった事なんだ。」そのように言い、彼はスマホを取り出して、文章を打ち始めました。彼は新たなYouTube動画を作る為のヒントを得たそうです。そのきっかけに貢献できた事にとても嬉しく思いました。

 

そして、その事に関する話題は終わりましたが、私は家に帰ってその事を考えていると、新たな事を関連して何点か思いつきました。破局後に、新たなステージにおける復活が実現するという奇跡のような現象は、普遍的真実であるかのように、世界の様々な場所で起こり続けているのではないだろうかという事です。

例えば冬になると草木は枯れるが、現在のように春になると草木が生い茂っていく。それはまるで、大破局で滅びた世界が最初からもう一度始まっていくかのようです。

氷河期と間氷期の関係もそうであるし、国や文明や思想は滅びても、後にアップデートされた形でまた復活したりする。ひょっとすると、滅びて後に復活するというような循環がフラクタルのように、あらゆる場所で、マクロ的にもミクロ的にも起こり続けているのかも?などと思いました。

 

そして、個人の人生においてもそうではないかな?と思いました。イジメ、トラウマ、経済的困難、ガチな引きこもり状態、精神疾患・・等々。によって人の人生は壊滅的ダメージを受けますが、大破局と再生というこの法則は、個人的な絶望的状況から新たなステージにおいて復活するという奇跡も実現可能であるという示唆を与えているように思うのです。

 

しかし、もちろん破局したあと復活しない現象もあります。絶滅する動物や植物がいるように。復活するものと復活できないものがあります。そこには何か普遍的法則があるのかもしれないし、もしくはただのランダム性、つまり運で成り立ってるのかもしれないし、もしくは、その両方かもしれません。

 

 

破局の先にあるものは、完全な死?それとも、新たなステージのスタート?

 

真面目に考えすぎない

 

 

彼はYouTubeチャンネルの中で自らの経験や思想や哲学などを語っています。ある動画においては、一体どのようにすれば狭い場所の中に囚われず、自由で健康的に生きれるのか?という事について彼の考えを述べています。

運動をする事、ニュースを見ない事、向精神薬に気を付ける事・・などなど

その中で彼は様々な事を語っていますが、私が一番心に残ったのは「真面目に考えすぎるな」というアドバイスでした。何故ならばとてもユニークなアドバイスだからです。

 

私はこの事について彼と対話しながら歩いていました。私はふと思い付き、こう言いました。

「この国、この社会、民主主義、法律などなどは、私たち人間が勝手に作ったコンセプトに過ぎない。不完全な人間が作ったコンセプトに過ぎないものに真剣に向き合えば向き合うほど、裏切られる」

そうすると彼はこう言いました。

「わかる。それを言い換えるとこういう事だと思う。人々がブラック企業に入って真剣に企業の方針に従えば、重労働を課せられ続けるだけ。」

 

私はこの事、つまり、社会に真剣に向き合い過ぎない事の大切さについて考え続けました。

例えば日本は民主主義国家とされているが、流行が変わるように、民意はコロコロ変わり一貫性がなく、そのようなわけの分からないものに国をコントロールされていては上手くいくはずがないと思うのです。

もちろん、独裁国家や共産主義国家であっても、不完全なたった一人の人間に全てを任せても、不完全な人間が作った共産主義というコンセプトに任せていても上手くいくはずがないと思います。

神権政治というか、万能の神から与えられた法に基づき政治を行っているのだという思想を持つ国もありますが、それはさておき、少なくとも日本においては天皇も人間ですし、不完全である人が作ったコンセプトに基づいて作られた国家です。

 

 

完璧であると偽られた不完全なコンセプトの中に閉じ込められながら自分を偽って無謬を装う事が苦しみの源?

 

 

だから、私はこう思うのです。この社会の根本がそもそも不完全なのに、この社会が真っ当なものであると妄信し、真剣に向き合えば、いずれ期待外れや裏切りに会うだろうという事です。

それに関連して、一体何が人々を病ませているか?狂わせているか?という事について思うことがあります。それは、この社会はそもそも不完全で機能不全で間違いだらけなのに、あたかも、それが全て一貫して完璧に機能しているという風に自分を偽り、取り繕う事によって起こっているように思うのです。

日本政府や大企業や官僚組織がしばしば前提としている無謬性のように、原理的に完璧になりえないものを完璧だと言い続ける事によって何かが狂っていくのではないでしょうか?

 

だから、私は聖人君主のように振舞う典型的な政治家の演説、勧善懲悪の物語や、いわゆる「正論」と世間でされるようなものに恐ろしさを感じます。それらは言い換えるならば、「原発絶対安全神話プロパガンダのバリエーション」のようなもので、聞けば聞くほど不安になっていきます。しかし、多くの人はそれを聞き、安心するようです。

それらは人々の自主性を奪い依存的傾向を生み出させます。何故ならば、本当にこの社会が完璧で、安全で、悪はいずれ滅び、善はひたすら繁栄していくのであれば、ただ権力を持つ者たちの言う事に真面目に従い続ければ良いからです。

 

でも、それは先に言ったように、期待に裏切られ続ける道となるでしょう。だから、この原理的に不完全である社会に真面目に向き合い過ぎなくても生きられるように、なるべく社会に依存しなくても豊かな人生を送れるようになる為に、これからも自立的に、独自に、活動していきたいと思います。

 

 

記念に渋谷スクランブル交差点で二人でセルフィーを撮ってみました(笑

彼がくれたお土産 

 

 

彼と出会えたことは本当に素晴らしい出来事でした。彼に感謝しています。何よりも彼が私の東京案内を楽しんでくれた事が嬉しかったです。彼は沖縄に旅立っていきましたが、また近い内に東京で再会する予定です。

また、彼が住むコロラド州を訪れる事を誘ってもくれました。おそらく私は今年アメリカを旅し、コロラドに住む彼と、ニューヨークに住む別の友人に会いに行く事になるでしょう。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございました!

 

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